sweet Filling 11
「今夜はうちに泊まって。まゆの部屋だけど、今日はちょうどお布団も干したの。軽く何か食べて、お風呂はいって、色々考えるのは明日にしましょ」
まゆの母親は悪戯っぽく笑って言った。えみりは少し迷って、お願いしますと応える。誰もいない自宅で、一夜をやり過ごす自信はなかった。あの男の影に怯えて、自分を心の底から罵倒しながら過ごせば、どこかにふらっと消えてしまいたくなるだろう。
「少しだけ、電話してきます。…心配してる人がいて、そのっ、まゆのこと…」
心配される資格は、えみり自身にはもうないと思った。図々しすぎる。周りを傷つけて、自分を守ろうだなんて。
「分かったわ。おばさんから話してもいいから、うちに泊まること。その時は代わってね」
まゆの母親にお礼を言って、電話用スペースに移動した。
『もしもし?』
ハセガワはすぐに電話に出た。
「友だちに、会えました。怪我は酷いけど…少しだけ安心できました」
『そう…』
「今日はその子のお家に泊まらせてもらえることになりました。だからハセガワさんも、ゆっくり休んでください。…本当にごめんなさい」
えみりはうなだれて、額に手を当てた。冷え切った手が、火照った身体に心地良い。
『ありがとう。俺は大丈夫。何かあったらまたいつでも言って。どんなに遅い時間でも気にしなくていいから。明日の朝も迎えが必要だったら』
えみりのスマホが震えた。画面を確認すると、知らない番号からの画像付きのショートメッセージだった。
“こんばんは“
画像にあったのはあのキーホルダーだった。無惨にも手足がちぎられている。ほつれた箇所を丁寧に縫い合わせてある、まゆのバッグで揺れていたものだ。
まゆの病室の前で倒れている女性刑事を目の当たりにして、一瞬たじろいだが、迷っている暇はなかった。
「早かったね」
そこには白衣を羽織ってまゆのベッドの横で立つあの男の姿があった。その手には、いかにも重そうなバッドが握られている。
「もう走れるようになったんだ。ずいぶん心配してたんだよ」
えみりはその時初めて自分が松葉杖を持っていないことに気づいた。右足首は思い出したかのように痛みを伝える。
「まゆは、関係ないはずです」
「関係ない?あのyoutuberと俺が高校の同級生じゃないって、幼なじみじゃないって、君にバラしたのに?君と僕を繋ぐ架け橋なのに、それを壊そうとした。君は信じてくれていたのに。僕たち仲良くなれたのに」
「まゆにはこれ以上なにもしないでください…。私はどうなってもいいから、好きにしてください…だから」
そう言ってえみりが顔を上げた時には、男の拳はえみりの鳩尾に食い込んでいた。
吐き気と猛烈な痛みで目を覚ますと、そこは多目的トイレの中だった。壁にもたれかり投げ出されたえみりの両足は、直視でないような状態だった。
右足はギプスの切れ目を境に不自然な方向を向き、左の足首は甲を内側に向けたまま伸びきっていた。左膝もソフトボール大に腫れ上がり、本来とは逆の方向に曲がっているように見えた。
「これでもう走れないでしょ?どこにも行けないでしょ?僕が抱っこしてあげないと」
男がえみりの右の足先をバッドでつつく。
意識を手放そうにも、経験したことのないような痛みがそれを許さなかった。えみりは虫の息で、声を上げることもできずにいた。
「お楽しみはこれから。もっともっと顔を歪ませて、泣き叫んでよ」
男はバッドを引き摺りながらえみりに近づき、耳元でかわいいね、と囁いた。
「えみりちゃん!!!聞こえたら返事して!」
ハセガワの声とともに、ドアを激しく叩く音が響いた。外側からは鍵がなければ開けることはできない。
「またあいつか。邪魔ばっかり。そうだよ、あいつのせいで君は壊れるんだよ。恨むなら、あいつを恨んでね」
鍵が外れる音と同時に、男はえみりに向かってバッドを振りあげた。
ここ数日の全てが夢ならば、どんなにいいだろう。まゆも傷付かない、誰も悲しまない。
でも夢ならば、ハセガワは存在しない。
それならいっそ、私がこの世に存在している事実もただの悪夢であればいいのに。
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