sweet Filling 10
自宅に帰りつき、リュックを下ろすとスマホを手にソファーに深く腰掛けた。
“今、学校から帰りました。なにかあったんですか?“
変な男…1人だけ、心当たりがあった。電車で出会ったあの男だ。
”あの子に手を出すなって、知らない男に言われて、心当たりがえみりちゃんしかなくて…。ちょっと心配になった“
すかさずハセガワに電話をかけた。あの時の、マンションの前で肩に触れられた感触を思い出して、心臓が跳ねる。
「もしもし」
「ハセガワさん、私のせいでごめんなさい…あのっ、ごめんなさい」
えみりの声は震えている。
「大丈夫だよ、落ち着いて。えみりちゃんは悪くないから」
「でもっ」
「知らせない方がいいかな、と思ったけど心配で…。俺こそごめん。えみりちゃんは、自分の安全を考えればいい。俺は大丈夫」
知っているハセガワの声より、少しだけトーンが低い。語尾もいつもの力強さが欠けている。
「…ハセガワさん、怪我してるんですか」
「…少し、ね。でもかすり傷だよ」
えみりは応えなかった。うそ、と呟く。
「…ごめん。肋骨が折れて、腕も少しだけ。でもそんなに痛くないから」
「本当にごめんなさい。もう、大丈夫なので、迷惑かけるだけだからっ、だからもう…」
「俺は大丈夫。えみりちゃん、自分を蔑ろにしちゃダメだ。大切にしてあげよう。それは自分以外の人のためでもあるよ。…今日は家から出ないで。明日の朝は学校まで送るから、部屋まで迎えに行く。不安だったら、ずっとこうして話してる。迷惑なんかじゃない。嫌ったりしない。離れていかない。1人には、しない」
ピンポン、とインターホンが鳴った。電話を繋いだまま、恐る恐るモニターをみる。
そこに映っていたのは、まゆの姉のゆきと青い制服を着た警察官だった。
「驚かせてごめんね」
助手席にえみりを乗せて車を出すと、ゆきは少し疲れた顔で微笑んだ。えみりは震える手を胸に当てて、血の気の退いた顔で前を見つめていた。
「まゆは、大丈夫だから」
あの子の勘違いだと思うんだけど、と前置きしてゆきは事の顛末を静かに話した。まゆが塾に向かう道中、駅のホームで知らない男に声を掛けられた。スマホで画像を見せられ、この子の連絡先を教えてほしいと迫ったらしい。教えられないと断るとイライラしたように捲し立てられ、その場を離れようと階段に向かったところで、そのまま階段下まで転げ落ちてしまったという。
「あの子、ほんとに抜けてるところあるから。よく転んでるし」
「ごめんなさい…」
「ううん、ちょっびっくりして慌てて踏み外しただけだと思うの。まゆもね、えみりちゃんは関係ないって言ってるんだけど、うちの母親がえみりちゃんが心配だって。人違いかもしれないし、画像の子がえみりちゃんだったかは分からない。だから、ごめんね。びっくりするよね」
全部、悪い夢であってほしいと思った。そうでなければえみりは正気を保っていられなかった。
「だからとりあえず、警察に相談したの。まゆは嫌がったんだけど…。私もあんまりまゆのこと言えないし、走るのも得意じゃないから」
「ごめんなさい、迷惑かけて…」
えみりは両手で顔を覆う。まだ8月だというのに奥歯がかちかちと鳴っている。
「こちらこそ、だよ。いつもありがとう。あんな子だけど、これからも仲良くしてあげて」
病院に着き、警察官とゆきの後に続いてまゆの病室に向かった。
「まゆ…」
「えみり…なん、で…?」
まゆは酸素マスクを着けられて、顔を歪めベッドに横たわっていた。胸の辺りまでタオルケットが掛けられていたが、固定された左腕からは銀色の器具が飛び出していた。左足もシーネで固定され、架台にのせられている。
えみりは力なくベッドの横にへたり込んだ。
「えみり、だいじょ、ぶ?」
病室にいたまゆの母親がえみりを支え、傍のスツールに腰掛けさせた。
「まゆ、ごめん…。私のせいで…」
「ちがうよ…?まゆが、勝手に転んだだけ…。えみり…泣かないで…」
まゆはゆっくり微笑んで、困ったような顔をした。静かに涙が伝う。まゆに繋がった機械がオレンジ色に光り始め、アラーム音が鳴った。すぐに医師が駆けつけて、点滴に薬を追加するとまゆは眠るように目を閉じた。
まゆの母親の話によると、左腕の2本の骨が折れてしまっているという。ズレが大きく、手術で金属を通し、固定している状態だった。肘も脱臼骨折と靭帯の損傷があり、しばらくは固定して経過を見ると言われたらしい。左足は靭帯の損傷がみられるが、保存療法で回復するという。術後の経過観察のために、最低でも1ヶ月は入院することが決まっているらしかった。
「えみりちゃん、ごめんね。まゆは言わないでって言ったの。でも、心配で…ごめんね」
消灯後の薄暗い談話スペースのソファーに腰掛け、まゆの母親は静かに言った。少し離れた所に警察官が1人こちらに背中を向けて立っている。まゆの病室の前にも女性の刑事が立っていた。
「いえ…こちらこそ、ごめんなさい。いつも迷惑かけてばかりで…。まゆにも、おばさんにも」
「ううん、迷惑なんて何も思ってないの。もちろんまゆもね。だから、どうか自分を責めないで」
並んだ自販機の唸るような機械音が響く。
「…私はどうしたら…どうまゆにお詫びをしたら、せめて、もう一度きちんと謝るだけでも…」
「えみりちゃん…ほんとに、こちらの勝手で申し訳ないんだけどね」
えみりは目を瞑り、息を止めた。もうおしまいなんだ、全部。
「これから先も、ずっと今まで通り仲良くしてくれるかな?」
えみりの見開いた目には優しく笑うまゆの母親が映っている。
「あの子、えみりちゃんと出会ってから学校を嫌がらなくなったの。毎日楽しそうにね、その日のことを話してくれるの。だから、不出来な娘だけど、これからも支えてあげてくれないかな?あなたがいるから、今のあの子がいるの。ごめんね、勝手な事言って」
まゆの母親はえみりをそっと抱き寄せた。えみりはただ下唇を噛み締めて、声を殺して泣いた。
胸の奥が、くすぐったくて温かかった。まゆと同じ柔らかい匂いがする。
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