sweet Filling 9
空を染める赤色を、えみりはタクシーの窓から睨んでいた。右足首が、酷く痛む。シートに足をあげることもできず、タイヤが段差を越えるたび、えみりは声にならない悲鳴をあげた。その都度運転手はルームミラーでえみりを見たが、自宅マンションに着く頃には興味を示さなくなっていた。
カフェではスツールに右足を投げ出して座っていたが慣れない姿勢に耐えきれず、終盤には踵を床につけ座っていた。そのせいで血流が増したのか、包帯がきつく感じられた。しかしえみりは少しでも長くハセガワと過ごしたいと、その激痛を何とかやり過ごしていた。
「えみりちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう」
ハセガワが唐突に、真面目な顔つきで言った。
「我慢はだめだよ。自分を大切にって言ったでしょ?」
「…はい。こちらこそ、ありがとうございました。もう、今日で…最後にしようと思って、だから、ごめんなさい」
「そっか。じゃあ少し遠回りして帰ろう。お会計だけ済ませてくるから、少し待ってて」
ハセガワは諭すように言うと、伝票に手を伸ばした。えみりは慌ててリュックから財布を出した。
「私が払います。…じゃないとまた、誘っちゃうから。また迷惑かけちゃうから…」
「えみりちゃん。迷惑だなんて思ってないよ。…最後だとも、俺は思ってない。今日はごちそうさせて。足が良くなったら次はえみりちゃんのおすすめのお店に行こう。…もっとたくさん話したい」
溢れた涙を急いで拭った。溢れ出す気持ちが、止められない。
でも今泣いたら、彼がまた困ってしまうから。
ハセガワが会計に立っている間にタクシーを呼んだ。それを知ったハセガワは少し驚いたようだったが、それがいいねと寂しそうに笑った。
「このカード、君のなの?親名義でも本人じゃないと困るんだけど。動くこともリハビリだと思わなきゃ。甘えてちゃ、良くなるもんも良くならんよ」
タクシーの運転手は大きくため息を吐いてカードを機械に差し込んだ。
「すみません…」
「羨ましい限りだよ、タクシーを気軽に使えるなんて」
丸まったままバインダーに挟まれた伝票とペンを差し出しながらえみりをちらりと見た。
「あの、怪我したばっかりで…」
「そう。じゃあこれ控えね。お大事に」
えみりが慌ててタクシーから降りると、すぐにタクシーは走り出していった。降りる際、右足を縁石にぶつけてしまい、足首は鋭い痛みを訴えている。少しだけ柔らかくなっていたえみりの表情は、以前と同じ堅いものに戻っていた。
世の中には色んな人がいる、いつか聞いたハセガワの言葉を思い出す。えみりは足元にたまった気怠い湿気を振り払うように息を吐くと、松葉杖をエントランスに向けた。
翌朝、登校前に病院に寄った。近所の整形外科ではなく、救急車で運ばれた総合病院だ。バスを乗り継ぎ汗だくになって辿り着いた。
足裏が汚れた包帯を見て、医師には叱られた。まだ腫れはあったが、ギプスに巻き替えるという。2日ぶりに見た足首は、所々が青リンゴのような質感に見えた。少しでも動かそうとすれば、刺すような痛みが走る。
レントゲンを撮り、温かいタオルで膝下まで拭くと、青い綿のようなものを巻かれた。その上に巻いた濡れた半透明の包帯が、硬くなってギプスになるらしい。じんわりと右足が温かい。えみりの右足は膝下までのギプスに覆われた。包帯とは違う拘束感が、少しだけ心強く感じられた。
「おはよ、えみり。大丈夫?」
学校に着いた頃には正午を過ぎてしまっていたがまゆはいつも通りにえみりを迎えた。
「おはよ。ちょっと疲れたけど、大丈夫。ギプスになったし、ちょっと安心」
「そっか、少しは良くなったのかな…?しんどかったら保健室行ってね。3限も4限もテスト返しと解説だしね」
「うん、ありがと。足は大丈夫なんだけど腕がぱんぱんだから、ちょっとサボっちゃうかも」
なかなか慣れない松葉杖で、普段使っていない上半身の筋肉が凝り固まってしまい、倦怠感が続いていた。3限はどうにか耐えたが、4限目は保健室で休ませてもらうことにした。
クッションに足を挙げて横になると、疲れが出たのかえみりはいつの間にか眠ってしまい、目を覚ますとまゆが横のスツールで英語の参考書を開いていた。
「英語、どうだった?」
いつものように他愛もない話をして帰路につきながらえみりが訊いた。
「最悪だった」
まゆは少しうなだれながら答える。横断歩道歩道の前で立ち止まる。えみりは息を整えて、肩からずり落ちそうになっていたリュックを背負い直す。それに合わせてキーホルダーが揺れる。
「英語ねぇ…嫌いじゃないんだけど、な。やっぱり、習うより慣れろってことかな?ケイタくんみたいにペラペラだったらな」
「へぇ、ペラペラなんだ」
「そそ。小さい頃から英語が好きで、高校は留学したんだって!自分で決めて、実行できちゃうとこがまたかっこいい」
まゆは自分のスクールバッグについたキーホルダーを愛おしそうに見つめる。
「高校から海外かぁ…」
ぴろんっとスマホが鳴った。松葉杖を脇で支えると、スカートのポケットを探った。
“変な男に付きまとわれたりしてない?なるべく1人にならないようにね”
ハセガワからの連絡だった。
「変な、男…?」
「あっ!ごめん、えみり。塾の補習あって…。ここから1人で帰れる…??」
えみりがスマホから顔をあげると、まゆが申し訳なさそうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「うん、大丈夫。歩くの遅くてごめんね」
「違うのっ、英語やばかったから急遽…!ほんとごめん、気をつけて帰ってね?」
「うん、まゆも気をつけてね」
まゆは足早に来た道を戻っていった。振り返って、にっこり笑い軽く手を振る。
まゆの向こうに、少しずつ秋めいて高くなった青空がみえる。
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