たいせつなもの 3
1ヶ月も経つと痛みはほとんどなくなって、ただ不自由さだけが残った。取引先のオーナーたちも、商品の話は早々に切り上げ、怪我の具合を訊いた。そしてお大事に、と追い返されてしまう。もちろん売上成績は低迷し、会社にも戻りづらくなった。
無理を言ってギプスを外してもらったが、やせ細った左手は使い物にはならなくて。無理をすれば鋭い痛みが走った。結局、三角巾は手放せず苛立ちが増すだけだった。
季節も徐々に移りゆき、涼しくなった朝晩はシクシク痛むこともあった。リハビリに通うようには言われていたけれど、気が乗らず、通院も止めてしまった。湿布の匂いが懐かしく感じて、また馬鹿なことをしてしまわないように。
「おねえちゃん、げんきないね」
帰社するために乗ったバスでうとうとしていると、聞き覚えのある声がした。弾かれたように眠気は吹き飛んで、いつの間にか隣に座っていた少女を見た。
麦わら帽子からベレー帽に変わっていたけれど、その声と口元のホクロは、紛れもなくあの時の少女だった。親指に、私のピンキーリングがはまっている。
なんと返していいか思いつかず、鼓動が早くなるのをただ感じていた。
「このまえ、わたしがおねがいかなえちゃったから?おてていたいいたいってなっちゃったから?」
無意識のうちに右手で左手首を握りしめていた。鼓動に合わせて、ジンジンと痛む。
「ううん…!違うよ!ほんとにお願い叶えてくれて、お姉さんびっくりしちゃった。ありがとうね」
そう言うと今にも泣き出しそうな顔をしていた少女は目を輝かせた。
「うれしかった?」
「うん、嬉しかったよ」
嬉しかった、という表現はきっと不謹慎なのだけれど、痛みの強かった数週間はとても充実していたように思う。
「じゃあまたおねがいかなえてあげる!」
彼女が嬉しそうに笑って言った声と、目的のバス停に到着したことを告げる車内アナウンスが重なって、慌てて席を立った。
「またいなくなっちゃった…」
振り返った座席には、今日も余りに余った商品サンプルを入れた紙袋が置いてあるだけだった。
そこから記憶は途切れている。
けたたましいサイレンの音で目が覚めた。全身が痛い。特に右足が、足の先から腰のあたりまで、鈍器で殴られ続けているような、刃物で刺されているような経験したことのない痛みがあった。あの時折れた左腕より、遥かに強い痛みで、意識が朦朧として呼吸が苦しい。
「分かりますか?救急車の中です。今病院に向かっていますからね」
そう言った救急隊の声が全身に響き、痛みで吐いてしまう。身をよじると、右のももに白いものが見えた。その下に続いた足も、ぐちゃぐちゃになっているように見える。折れた骨が皮膚を突き破って顔を出し、右足は原型を留めていなかった。
病院に着くとパンツスーツが切られ、血だらけになった右脚が露わになった。救急隊の話によると、大型トラックに跳ね飛ばされたあと右脚はそのまま車体に巻き込まれてしまったらしい。止まっていたバスを避けようとして歩道に乗り上げたトラックは、結構なスピードを保ったまま、私の身体を弾き飛ばしたようだった。
足首と膝の下あたりでぐにゃりと曲がり、ももからは骨が飛び出して、まるで自分の脚だとは思えなかった。
このまま右の手足の緊急手術をするという。
折れて動かない右手の痛みなんて感じられないくらい、右脚の燃え上がるような痛みで意識を失った。
自分のうめき声で目が覚めた。右脚はピクリとも動かなかったけれど、足先から付け根まで例えようの無い激しい痛みが襲った。
先生の話では、手術で折れた骨を金属で繋ぎ合わせたらしい。ももと、膝下と足首の3箇所。元どおりに歩けるようになるのは難しいと言われて、別段動揺もしなかった。
右手も同じように金属が入っているらしい。
昼夜を問わず、右脚は激しく痛んで、眠ることさえままならなかった。高熱が続いて朦朧とした意識で、うめき声をあげながら耐えるしかなかった。
ようやく熱も下がり、一般病棟に移る頃には痛みも幾分かマシになっていた。少しでも動かそうとすれば、脂汗が吹き出るほどの痛みだったけれど手術直後と比べれば雲泥の差だった。
左手で、左のももをさすってみる。こんなにも太い骨が折れてしまったんだ、そう思うと、うっとりした。
「田渕さん、面会の方が」
カーテンから覗いた看護婦さんの声に我に返った。次に顔を覗かせたのは、会社の上司だった。思わず身体を起こそうとして、痛みが脳天まで突き抜けた。
「あうぅ…!!!」
「だいぶ酷いみたいだね…動かなくていいから」
「すみません…」
上司は暗い表情で丸椅子に座った。
「こんな時にアレなんだけど…実は事業所の規模縮小の話が出ていてね」
「…元どおりに歩けるようにはならないようです。なので、退職させていただきたいです。申し訳ありません」
上司の言葉を遮るようにして、天井を見つめながら言った。何を言いに来たかくらい、分かったから。
「そうか…分かった」
上司は事務的な話をして、そそくさと帰っていった。その途端、涙が溢れた。仕事が自分にとって大切だなんて思ったこともなかったのに。あの少女のはにかんだ笑顔がふっと思い浮かんだ。
リハビリが始まっても、思うように右脚は動かなかった。痛みは本物で、脂汗を浮かべながら耐えていたけれどそこには悦びしかなかった。寧ろ、いつかこの痛みも消えてしまうかと思うと、寂しささえ感じた。
消灯後にはこっそりとトイレに入り、下半身を慰めた。
でも決まって、絶頂を迎えようというところでいつも同じイメージが浮かんでくる。
両手足を吊り下げられ、無防備に開いた両脚。身体がビクビクと動いてしまい痛みに悶えながら犯される。
あの日見た夢が、頭から離れなかった。こんなに大怪我をしても、後遺症が残ると言われても、底なしの沼のような欲望から逃げることはできない。一度知ってしまった快楽を忘れることなどできるわけがないのだから。
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