sweet Filling 1
「はあ、つまんない」
えみりは口癖のようになった言葉を呟いた。この1週間、テストため勉強に追われていた。空腹感で集中できなくなり、コーヒーでも飲もうかとリビングに出た。湯が沸くまでの間、SNSを開くが、特段興味を唆られるものはなかった。
スマホを投げ出し、ソファに寝転んだ。えみりは母親のいないキッチンを白けた顔で一瞥した。また海外出張だという。幼い頃に母親と離婚した父親の顔はあまり覚えていない。
ダイニングテーブルの上にはクレジットカードが置いてある。母親名義の、暗く光るカードがえみりは嫌いだった。ここ数年で現金を持たずに買い物ができる店が圧倒的に増えた。食事はコンビニ弁当か、気が向けばカフェに出向き、済ませていた。
スマホを手にすると、友人のまゆから勧められたケイタ、というyoutuberの動画をぼんやりと眺めた。特に面白いわけではない。誰が1番ケイタを理解しているかを競う企画動画。まゆだったらトップになれるのではないかと思うくらい彼女はこのケイタにハマっていた。マスコットキャラのキーホルダーがなぜかえみりのバッグにも付いている。まゆがお揃いで買ったのだという。数年前、まだケイタが無名の頃からえみりのスクールバッグで揺れている。
ことんっ
玄関から微かな音が聞こえた。はっと息をのんだ。スマホを握りしめると、えみりはなるべく気配を消し立ち上がった。時計は20時を指し示している。
「(え、やば…)」
玄関は施錠されていなかった。母親からの急な出張の連絡にふてくされながら帰宅したえみりは、まゆからの新しい動画がアップされたという連絡に呆れながら返事に困り、つい施錠を忘れてしまっていた。
急いで鍵を締めた。えみりはほっと胸を撫で下ろす。そのときドアの隙間に、紙が挟まっているのに気がついた。
「DMか、焦った…」
胸のざわつきを抑え込むようにえみりは少し大きめの声で言う。その紙切れには手書きの“ドラマのエキストラ募集”の文字が踊っていた。
「(少し覗くくらいなら…)」
翌日、塾の自己採点を早めに切り上げて、えみりは街中へ出かけていた。その手には昨晩届いたDMが握られている。繁華街にある、古ぼけた雑居ビルの5階。エレベーターはタイミング悪く故障している。しかたなくほこりっぽい階段を上る。8月に入ってからよく息苦しさを感じていた。今夜も熱帯夜になりそうな空気感だ。引き返そうと思ったが、自宅はえみりにとって帰りたい場所ではない。
どくんっ
ふわっと視界がかすんだ。また貧血だ、とえみりは立ち止まった。視線をあげるとまだ4階の途中。食事を抜くと、少し動いただけで血圧のバランスが狂ってしまう。吐き気の中、世界が黒に染まっていく。
昔、家族で住んでいた団地の匂いがした。蒸されたコンクリートの匂い。とても懐かしい匂いだった。
頭痛を感じて目を覚ますと、薄暗く見慣れない部屋のソファに寝かされていた。そこは何かの事務所のような雰囲気だった。甘いような、酸っぱいような、なんとも言えないタバコの匂いがする。思考を巡らせてみても雑居ビルの階段でうずくまって、それからの記憶がない。
「あ、よかった。目が覚めて」
「えっと…」
「大丈夫?貧血か何かで倒れちゃったみたいだけど」
少し離れた椅子に腰掛けているスーツを着た男性がこちらを覗いていた。
「大丈夫です…」
えみりはゆっくりと起き上がる。揃えられたローファーに足を乗せると右の足首がドクンと痛んだ。
「い、た…」
「え?どこか怪我しちゃった?」
男性は首を伸ばして心配そうな声を出した。
「足首、少し捻ったみたいで…。でも大丈夫です、すみません、ありがとうございます」
困ったなあ、と呟きながら男性は奥の部屋に消えた。大丈夫、もう一度自分にそう言い聞かせる。
「あったあった、湿布」
「…え、っと…その…」
「え?捻ったならまず冷やさなきゃ」
えみりは戸惑いを隠せない。半ば冷やかしのような気持ちで訪れた場所で、倒れて足を捻り、湿布を手渡されている。
「あの、エキストラの…」
「ん?あ、うちに来てくれての?え、でも怪我…」
「本気でドラマに出たくて」
嘘をついた。まだ自宅に帰りたくない。それが本音だった。
「どう?歩けそう?」
事務所でスーツの男から松葉杖を受け取ると、えみりはゆっくりと立ち上がった。頭がふわふわした。包帯を巻かれた右足を床につけると、足首に痛みが走った。
「いっ…」
「やっぱり今日は無理しないほうが…」
男は手当てをしてから、であればこのまま演技のテストをしてもいいと提案した。松葉杖を使い、電車に乗って少し先の駅まで向かう。もちろん1人で、なるべく重傷な演技をして。そうすれば足首に負担はかかりにくいのではと男は考えたのだろう。
「大丈夫、です」
男性は心配そうにえみりを見た。痛みは耐えられないほど強くなかったが、松葉杖があるならば頼って歩きたい。何より真っ白な包帯を汚したくないと思った。
最初、男は日を改めてテストをしようと提案したが、えみりは食い下がった。男は渋々了承し、えみりに断りを入れると右足首に湿布を貼り、しっかりと包帯を巻いた。その手つきは慣れたもので、あっという間に足首は固定された。えみりはその手捌きに魅入られたのと同時に、安心感を覚えた。痛みが和らいだからだけではない。胸の奥に温かい何かを感じた。
「あの、どうして…」
「俺も学生時代はよく怪我しててさ。あ、そういうことじゃなくて?いや、困ってそうだから。詳しくは分かんないけど、とりあえず、ね。それに捻挫っていうのは、」
えみりの視線に気付いた男は、目を逸らした。男の言葉の中に、嘘は感じられない。
「じゃあ…鷹島駅で待ってるから」
そう言って、交通系電子マネーを渡された。
鷹島駅に向かうために最寄りの駅までは徒歩移動だ。
事務所から最寄り駅まではそう遠くはなかったが、着く頃には背中にじっとりと汗をかき、えみりはブラウスの首元を緩めていた。ブレザーを脱ぎたかったが、通学カバン以外の荷物は持てそうになかった。
「大丈夫ですか?よかったらここ座ってください」
電車の中で、若い男性が自分の荷物を退かしながら声をかけてくれた。礼を言って、えみりは不自由そうに腰を下ろす。正直、初めて使った松葉杖は想像以上に体力を消耗した。
「あ、そのストラップ」
「え?あ、これ…」
「あ!いきなりごめんね…」
隣の男性が申し訳なさそうに視線を自分のスマホに戻した。大学生くらいの爽やかな男性だった。
「いえ、大丈夫ですよ。このyoutuber好きなんですか?」
「あ…実は高校までそいつとずっと一緒だったんですよ。だからなんか嬉しくなっちゃって…」
「へえ!すごい」
まゆだったらもう少し気の利いた返しができたんだろうな、と思った。しかし男性は本当に嬉しそうに、幼なじみのケイタのことを話してくれた。
「あ、次で降りるから。ほんと話しかけちゃってごめんね。これからも応援してやってくれると嬉しい。あいつ、楽しそうにやってるから。怪我、お大事にね!」
エキストラのテストだということを忘れていたえみりは少し辺りを見回して、恥ずかしそうに俯いた。男性のキラキラした目と、自分のことのように嬉しそうな声色にすっかり引き込まれていた。
あんな風に自分を想ってくれる人がいたら…
ふとそんなことを思ってしまった自分を鼻で笑い、キーホルダーを握りしめた。
席を譲ってくれた男性が降りた駅の次が鷹島駅だった。表情を引き締め、深呼吸した。
出口を目指し慎重に松葉杖をつく。しかしその駅は小さく、短くはあるが階段を降りなければ出口にはたどり着けなかった。えみりは少し躊躇ったがすぐに痛そうな顔を作り、階段の上でおろおろして見せた。
「大丈夫?」
しばらくすると母親くらいの年齢の女性に声をかけられた。
「駅員さん、呼ぶわね。ちょっと待ってて」
しばらくして女性は車椅子を押した駅員を連れて戻ってきた。
「足、骨折してるの?うちの息子もなのよ」
「あ、部活で怪我しちゃって…」
えみりはとっさに演技をする。
「松葉杖、慣れてないみたいだから大変よね。まだ治るまでかかるんでしょ?」
「今日怪我しちゃって、痛いし、結構ひどいみたいで…」
「あら、じゃあまだ痛むわね。でも怪我してみると周りが意外と親切だってことに気付いたりするものよ。早く良くなるといいわね」
女性の笑顔に足首がちくりと痛んだ。車椅子に座ると駅員2人がかりで持ち上げられた。車椅子で階段を下り、礼を告げてスーツの男に合流する頃には心を刺す痛みと鼓動に合わせてジンジンと痛む足首の痛みが心地よく、愛おしく感じられていた。
男の運転で事務所に戻る。ハセガワと名乗ったスーツの男は温かいお茶を出し、えみりと向き合った。
「はい、お疲れ様。演技、すごく上手でびっくりしちゃったよ!」
ハセガワは嬉しそうに言った。
「あの、実は結構足が痛くて…半分は演技じゃないっていうか…」
「そうだったの!?早く言わなきゃ、そういうことは。えっと、痛み止めがあった気が…」
えみりの右足首は少しずつ痛みを増し、包帯もきつく感じられるほどになっていた。
「これ痛み止めだから辛かったら」
そう言ってハセガワは青っぽい錠剤とミネラルウォーターをえみりの前に置いた。
「ありがとうございます」
喉につっかえる不快なざらつきがあった錠剤を流し込むとまた足首が痛んだ。
えみりは厳重に巻かれた包帯をゆっくり解いていく。拘束感がなくなっていく感覚にえみりは寂しさを感じた。
「あっ」
少し腫れた足首には包帯の跡がくっきり残っていて、動かそうとすると痛みが走った。
「うわ、ひどいじゃん…。ごめん、無理させて。お家の近くまで送ってくよ。それか病院行く?親とは連絡とれる?」
「大丈夫です…!!自分で帰れるんで…」
えみりは腫れた足をローファーにねじ込むと、右脚を引きずるようにビルを出た。
やっとの思いで帰宅してそのままソファーに倒れ込んだ。その途端、めまいに襲われ、吐き気がした。胃が焼かれるような感覚を感じながら今日の出来事を思い出していた。見ず知らずの人たちにあんなに優しくされたのは初めてで、胸にこみ上げてけるものを感じた。自分を見てくれてる人がいる。それだけで認められたような、存在を肯定されている気がした。
“ケイタの幼なじみっていう人に電車で会っちゃった”
まゆにLINEを送る。どこまでが現実で、どこからが夢なのか。ぼんやりしながら考えたが、答えは出そうになかった。
不意に、甘いタバコの匂いがした。
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