たいせつなもの 5 (完)
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井があった。上から吊られた両手が見える。きっと両脚も、真っ白な棒のようになって吊られているのだろうけれど首は持ち上がらず、確認することはできない。
「美和...?」
横で声がして、ゆっくり目をやると元彼の涼が心配そうな表情で私を見つめていた。
「よかった…先生呼んでくるから」
涼が、いる。手足を吊られて起き上がれない私の横に。また夢なんだ、と思った。身体の痛みも、感じないから。なんなら、脚の感覚はなにもない。
そう、夢に決まっている。非常階段を、少女を追って転げ落ちたのも全部。最初から、全部私の欲望がみせた、ただの夢。
「田渕さん。辛いでしょうが、現実です。ゆっくりで大丈夫です。受け入れていきましょう」
真剣な顔で言った先生は、私の状態について説明した。今は機械管理で鎮痛薬を投与しているおかげで、痛みはほとんどないということ。折れた手足は、手術されているということ。
そして、脊髄損傷により下半身不随になったということ。
全部嘘だ。こんな趣味の悪い夢、早く覚めてほしい。
先生がベッドを離れていくと、涼が私の頭をゆっくり撫でた。その瞬間、涙があふれ出した。
待っても待っても、悪夢が覚めることはなかった。
涼は私の元職場から連絡を受けて、病院に駆けつけてくれたらしい。親を頼りたくなかった私は、涼に頼んで緊急連絡先として番号を届け出ていた。
一般病棟に移って、改めて吊り下げられた両手足を見た。憧れ続けた姿のはずなのに、何も感じなかった。
数ヶ月後に固定が外され、手足が自由になっても、やっぱり両脚が動くことはなくって、左手にも大きな手術の痕が残った。
生きる希望すら失って、何度も殺してほしいと泣きわめき、涼を困らせた。そんな時彼は私が落ち着くのを待って、美和がいなくなったら悲しいと諭してくれた。
退院するまでのほぼ毎日、涼は病室に通ってくれて、他愛もない話をした。その間に車椅子でも乗りやすい車に買い替え、初めての外泊でプロポーズされた。
一度身勝手な理由で別れを告げた上に、障害を負った女なんて、と何度も断ったけれど、涼の決意は固かった。
私の下半身は、感覚を失ったにも関わらず慢性的にひどく痛んだ。焼けた鉄の棒を足の中に入れられるような痛みにほぼ毎日、悩まされいる。しかしもう、その痛みに欲情して下半身が熱くなることもなく、ましてや触られたとしても、そのことにすら気付けない。
あの少女と同じ背格好の女の子を見かけるたびに、冷や汗が止まらない。無邪気な笑顔を浮かべた彼女の目はいつも、底のない沼のような色を宿していたから。もし次に私の前に彼女が現れた時、歩く自由の次に奪っていくものはきっと、やっと気付けた本当にたいせつなもの、彼に違いないと思うから。
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