SNS Cinderella 2
この誘いにのることが得策だとは到底思えなかったが、日奈子には時間がなかった。
マネージャーからの着信が段々と増えている。寝てしまっていましたという言い訳が通じるのも、あと数時間のうちだ。
DMの相手が指定した守谷クリニックは調べてみると自宅からそう遠くない整形外科だった。
昼間と同じように包帯を右手に巻くと、目深に帽子をかぶり家を出た。
日奈子がクリニックに着いた頃には日が傾きはじめていた。ひと気のないエントランスに立つと静かに自動ドアが開き、中から涼しい風が漏れてくる。待合室らしき所で1人の男性が腰かけていた。白衣を着ており、医師のように見えた。爽やかな雰囲気の男性で、日奈子の少し年上と言ったところだろうか。
「あの…」
日奈子がそう声をかけると、男性はゆっくりと立ち上がり、優しい顔で日奈子には笑いかけた。
「僕はこの病院の医師で、守谷と言います。どうぞこちらへ」
そういうと守谷は診察室へと案内するようにゆっくりとした足取りで入って行く。
「右腕をこちらに出してください」
日奈子は慣れた手つきで包帯を取ると守谷の方に差し出した。守谷は予め準備しておいたであろうシーネを日奈子の右腕に当て、日奈子の腕に合わせて形を整える。次に冷えた湿布薬を右手首に貼り付けた。
日奈子の中で、経験したことのない感情が渦巻く。
優しい手つきで包帯が巻かれていく。湿布の匂いとシーネのざらついた感触が、あたかもそこに痛みがあるように感じさせた。
同時に、あぁ逃れられないんだ、という絶望にも似た感情が湧き上がってきた。
「…腱鞘炎で、全治2週間といったところですかね?」
日奈子の右手首は、あっという間に固定され動かせなくなった。誰が見てもけが人そのものだ。
「あの…これって…」
状況がまったく飲み込めず、ふわふわとした頭でなんとか言葉を発した。
「あなたが困っているだろうと思いまして。僕にはこれくらいのことしかできませんが」
そう言って守谷はまた微笑んだ。
「いいんですか?電話、出なくて」
マネージャーからだ。何十件も不在着信が残っている。
「あの、守谷先生…その、骨折、じゃダメですか…?」
携帯をカバンに押し込んで、日奈子は言った。守谷は一瞬きょとんとして、それからまた笑った。
「そうだよね、ごめんなさい。高嶋日奈子さん、右手首の骨折で全治3ヶ月です。腫れが引いたらギプスに巻きかえます。…もう一回、診せてくれる?」
そう言いながら守谷は包帯を解きはじめ、そのあと奥からもうひと回り大きいシーネを持ってきた。
「今回は肘も固定しますね。利き腕で不自由だと思いますが、骨がつくまで動かさないでください」
腕の付け根までがっちりと固定された右手を三角巾で吊ってもらい、日奈子はクリニックを出た。
自宅までの道のりをどう帰ったかは覚えていない。夢の中にいるような感覚を拭いきれないまま、マネージャーに電話をかけ、謝った。明日の仕事は休むように言われたが、雑誌のインタビューくらいなら大丈夫だと答えて電話を切った。
そのあとすぐにファンに向けてSNSを更新した。
ピクリとも動かせない手首や肘のせいで何倍も時間がかかってしまったが、その不自由さに酔いしれそのままベッドに入った。
2018/07/09(Tue) 22:32:48
hinako_takashima_official
皆さま、ご心配をおかけして申し訳ありません。そしてご報告が遅くなってしまい、ごめんなさい。
今回、不注意で自宅の階段から落ちて右の手首を骨折してしまいました。
でもお仕事はできる限りやらせていただきます!
心配していただいた方、ありがとうございます。
重症に見えますが、とっても元気です(*´-`)
これからもよろしくお願いします。
明日はインタビューのお仕事です*
今日は早めに休みます。おやすみなさい(( °ω° ))/.:+
「うわー大丈夫ですかー」
「全然平気ですよー。よろしくお願いします」
翌朝、マネージャーに迎えにきてもらいスタジオに向かった。周りが心配するのも無理はない。すらりと伸びた手脚とは対照的にがっちりと固定された右腕。日奈子の華奢な身体には似つかわしくない手当てがとても痛々しく見える。
インタビュー中、無意識のうちに手首の辺りを撫でていた。時にはわざとらしく顔を歪めたりした。周囲はそんな日奈子の様子に心配そうな表情を浮かべる。
時折、痛みますか?などと訊かれると、思わずにやけてしまいそうになる。
シーネの拘束感は、とても満足のいくものだった。しかし次第にそれにも慣れてくると今度はイライラが募った。
仕事を終える頃にはマネージャーの話が耳に入ってこないほど、日奈子の頭の中は恐ろしい考えで埋め尽くされていた。
帰宅し、鍵をしめると日奈子はすぐに包帯を解きシーネを外した。そして友だちの誰かが置いていったワインをただひたすらに飲んだ。
そこに痛みがないことが不満だった。いくら演技をしてみても、所詮はすべてつくりものだ。なのにどうして固定をして三角巾までしているのか…。それが突然とても滑稽なことに感じられ、一気に冷めてしまった。
日奈子のアパートは玄関のドアを開けるとすぐに内階段があり、居住スペースは2階だ。ワインを半分ほど飲んだところでよろよろと階段を降りた。残り4段を残して、日奈子はゆっくりと深呼吸した。慣れないワインのせいか鼓動が早鐘のように打つ。そのまま目を閉じると右手だけを前に出した状態で、身体を前に傾けた。
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