SNS Cinderella 3
ゆっくりと身体が前のめりになっていくのを感じたが日奈子に迷いはなかった。
手のひらが床に着いた感触があった直後、日奈子の右腕から今まで聞いたことのない異音がした。 全体重と落下の衝撃を受けた右腕は呆気なく砕けてしまう。
「いやぁああああ!!!!」
想像以上の激痛に日奈子は泣き叫んだ。反射的に口を塞ごうとしたが、右腕は折れ曲がったまま身体の下敷きになっていた。脳天まで突き上げるような痛みに、日奈子の大きな瞳から涙が溢れた。吐き気と悪寒に襲われ、しばらくの間動けずにいたが歯を食いしばり身体を起こす。右腕は手首の少し上で不自然に曲がっていた。手首から先は異常な腫れのせいで艶があるようにも見える。肘もおかしな所が盛りあがり、外れているのが分かった。日奈子は気が動転し、肘をはめようと力いっぱい右腕をひっぱった。関節がはまる気味の悪い感触。脱臼は運よく戻ったようだ。
「あぁ…骨折…できた…」
日奈子はそう呟くと、飲んだばかりのワインを吐いてしまう。想像以上の右腕の状態に、故意に怪我をした日奈子でさえもすぐにでも病院にいかなければ、と思った。しかし軽率な行動はできない。また誰かに写真を撮られでもしたら、全てが終わってしまう。嘘つきのレッテルを貼られ、モデルの仕事もなくなってしまう。
奥歯をカチカチ鳴らしながら、日奈子はゆっくり立ち上がり、階段を昇る。自力で守谷のところに行くとしても日奈子の右腕はシーネで固定されている必要があった。
日奈子はヒイヒイと声を漏らしながら肘を曲げ、シーネを包帯で固定していく。少し触れるだけでも激しい痛みに襲われ、三角巾で腕を吊る終える頃には日奈子の顔は涙と脂汗でぐちゃぐちゃになっていた。
タクシーを使うこともできず、ひと気のない道を選び守谷クリニックを目指す。 すでに診察時間は終わっていたが、エントランスの日奈子に看護師が気づき、車椅子を用意して出迎えてくれた。 そのまま診察室に通される。
「先生…ごめんなさい……。せっかく、助けていただいたのに…」
日奈子は俯いたまま言った。顔面蒼白の日奈子を見た守谷は驚いたような顔をし、すぐに表情を曇らせた。
「…僕の方こそ、軽率なことをして痛い思いをさせてしまったみだいだ…。申し訳ない」
「違うんです…」
「すぐに検査しましょう」
そう言って守谷は日奈子が巻いた包帯を解いて行く。
「これは酷いな…」
守谷が独り言のように呟く。日奈子の右腕は倍以上に腫れあがり、内出血も起こしていた。すぐにレントゲン撮影とエコー検査が行われ、橈骨遠位端骨折と尺骨のヒビ、肘関節の脱臼による靭帯損傷が分かった。
「折れた骨のズレを治します。痛み止めの点滴をしてますが、痛いと思うので、少しだけ我慢してください」
看護師が、日奈子の二の腕の辺りを抑える。点滴が効いてきたのか、先程より痛みが治まってきたことに日奈子は少しホッとした。
「本当は手術で治せたらよかったんだけど、傷が残ったらいけないと思って。すぐに終わらせるから、我慢してください」
守谷がそう言うと、看護師が日奈子を抑える力が強くなる。
「あああああ!!!!!!」
守谷は日奈子の指を掴むと思い切り引っ張りながら手首を曲げ伸ばしする。 ゴリュっと気味の悪い音が腕の中で響いたのが聞こえた。
「いやあああああ!!!せんせぇ!!やめてえぇ!!!いたいいい!いだいよおおお!!!!!」
今まで経験したことのないような痛みに日奈子は大声で泣き叫んだ。しかし守谷の手が止まるはずもなく、折れた骨を押し込むように右腕を捻る。守谷はその間、呟くようにごめんね、ごめんなさいと繰り返した。
「もうやめでえええ!!!!ああああああ!!!」
「もう大丈夫です、ゆっくり息をしてください」
実際にはそれほど長い時間ではなかったが、日奈子にとってはとても長く感じられ、看護師が毛布をかけてくれた後も、日奈子は子どものようにヒクヒクと泣き、震えていた。
整復された右腕は、腕の付け根までシーネでがっちりと固定される。昨日とは違い、今にも爆発しそうな痛みがその中にはあった。指先も腫れ上がり、指を動かすこともままならない。日奈子は憔悴しきって涙を拭うこともできず、襲ってくる激痛に耐えていた。
「本当にごめんなさい。完治するまで治療させてください」
診察台の横の丸椅子に腰かけ、守谷が言う。その声に日奈子はゆっくりと目を開ける。
「いえ…全部わたしのせいですから…。もう先生には、ご迷惑かけません…ごめんなさい…。だからもう謝らないでください…」
次第に整復の痛みも治まって、点滴を追加してもらったおかげで日奈子は落ち着きを取り戻した。守谷も憔悴した様子でその表情は暗い。
「でも、どうして…」
日奈子は昨日訊けなかった疑問を守谷にぶつけた。一連の守谷の言動に、ありがたいながらも違和感を感じていたからだ。
「そうですね…ファンだから…でしょうか」
少し困ったように笑い、守谷は答えた。日奈子も少し照れたようにありがとうございます、と言う。
「でも、1番の理由は、あなたの気持ちが痛いほど分かるからです」
そう言っておもむろに捲った守谷の左脚のチノパンの下には、無機質な義足があった。日奈子は突然のことに驚きを隠せない。
「僕にはなんの取り柄もなくって、本が友だち、みたいな子どもでした。たとえ、勉強を頑張ったからと言って満たされるはずもなくて…。その隙間を埋めるために、小さい頃から自分を傷つけていました。大怪我がしたくて免許を取って、原付に乗って…」
そこまで言うと守谷はハッと我に返ったように日奈子に目をやる。
「ごめんなさい。こんな話…。少し休んでください」
そう言って立ち上がった守谷の裾をひっぱり、日奈子は首を横に振った。その目には涙が溢れていた。
「じゃあもう少しだけ。…それで単独事故をわざと起こして、左膝から下を失いました。両親は医者でしたが、あんなに狼狽えた2人を見たのはその時が初めてで。初めて後悔しました。なんてバカなことをしたんだろうって」
失くしてからじゃ遅すぎるんですけど、と守谷は笑ったが日奈子は溢れる涙を抑えきれなかった。
「あなたは僕とは違った。でも僕が引き金を引いてしまった。もしかしたら、少しは助けになるんじゃないかって。本当にごめんなさい」
「わたしが全部悪いんです…。先生を苦しめて、迷惑をかけて」
守谷はそう言って泣きじゃくる日奈子の肩を優しく撫で、僕は大丈夫ですから、と優しく、まるで子どもを諭すように言った。
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