SNS Cinderella 4
日奈子は守谷クリニックの個室で、痛みで寝返りもままならない眠れぬ夜を過ごし、翌朝、守谷の運転で自宅に帰った。
その日は舞台の公開記念イベントの仕事のため、知り合いの美容師に頼んでシャンプーをしてもらった。アームスリングから僅かに覗く指先は腫れがひかず、内出血で紫色になっていた。
右腕を抱えて、痛みに顔を歪める日奈子を見て、美容師が仕事を休むよう勧めるほどだったが日奈子は努めて明るく振る舞った。痛み止めもほとんど効かず、食事もとれずにいた。歩く振動さえも右腕に響き、日奈子は時折立ち止まり、呼吸を整え、なんとか仕事をこなした。
イベントでは日奈子が舞台に現れると、一瞬会場がどよめいた。役柄に合わせた真っ白なワンピースに黒のアームスリングで腕を吊った日奈子の姿は、どこか妖艶にも見えた。
ネット上で日奈子の怪我がフェイクで売名行為ではないかと話題になっていたことを記者に教えられ、日奈子は居た堪れない気持ちになった。話題になったことがきっかけとなり、イベントには大勢の記者が集まり囲まれたが、腫れのせいでまだギプスができないと説明すると、その痛々しさに記者たちは遠慮がちに質問をし、スタッフの配慮で取材は早々に切り上げられた。
骨折をし、そこに痛みがあることに今までずっと憧れてきた。周りが心配してくれることもとても嬉しく感じることは何も変わりなかったが、守谷の辛そうな顔を思い出すと、二度と故意に怪我をしようとは思えなかった。それに正直、あの地獄のような整復の痛みは思い出すだけで吐き気がするほどだ。
守谷も世話になったというカウンセラーとの面談を受け、自傷癖のケアも始めることが決まっていた。
3日後、日奈子の右腕にギプスが巻かれた。包帯が解かれ、支えを失った右腕は不安定で、肘の辺りまで内出血が広がっていた。 守谷はしっかりと右腕を支え、優しい手つきでギプスを巻いてくれたが触れられる度に痛みが走り、日奈子は歯を食いしばってそれに耐えた。そんな日奈子の様子に、幾度となく謝罪の言葉を口にする守谷に対して、本当に申し訳なく思い、日奈子は胸が締め付けられるのを感じた。
シーネからギプスになったことで日奈子の右腕は幾分かスリムになった。まだ腫れはあるものの、ギプス姿を是非撮らせてほしいと言うカメラマンも多く、仕事の依頼は一気に増えた。中には真っ白な三角巾をしてほしい、眼帯をしてほしいという要望もあった。元々色白の日奈子の身体に、包帯や三角巾の純白は非常に映えた。
なんとかカメラマンの要望には応えていたが、不意に右腕に力が入ってしまったりすると激しい痛みが走り、うずくまってしまうことも多々あった。痛み止めは手放せず、ヘトヘトになってベッドに入るころには右腕だけでなく、身体のあちこちが悲鳴をあげていた。
「先生、今度…握手会の仕事があって、できれば両手で握手をしたいなって…」
「アームスリングを外したいってことですか?短時間なら大丈夫ですが…高嶋さんの右腕全体は、急激に筋力が落ちている状態なので、無理はしないで、右手は添えるくらいにしてください」
日奈子は仕事が忙しくなってからも、毎日守谷のところに通いリハビリを受けていた。リハビリと言っても指を動かしたり、肩を回したりと痛みが少ない範囲でのものだったがその甲斐あって、当初は痛みで動かせなかった指は比較的スムーズに動くようになっていた。
握手会当日。日奈子は少しでもギプスが隠れる衣装を用意してもらい、アームスリングを外した。守谷にはヒールのないパンプスを履くように言われたが、モデルとしてのプライドがそれを許さず、いつもよりは大分控えめなストラップパンプスを用意してもらう。
守谷は今回、日奈子が無理をすることを見越して主治医として同行していた。事前に軽くリハビリを行い、筋肉の緊張をほぐすマッサージを施してもらった。
日奈子は心配するファンに対し、左手でごめんなさい、と言いながら右手を添え、丁寧に対応していった。以前の日奈子であれば、心配されればされるほど満足だったが、今はただ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分の欲に負けた結果、多くの人に迷惑をかけ、心配させてしまったことで、日奈子の考えは変わってきていた。もちろん守谷の存在が大きく関係していたが、守谷に対する好意は、胸の内に秘めておこうと決めていた。
握手会もほぼ終盤にさしかかったころだった。日奈子が度々苦痛の表情を浮かべるのを守谷は見逃さなかった。しっかり添えていた右腕も、動きが鈍く、肩もあまり上がっていないように見えた。守谷はスタッフに少し時間がほしいと告げ、5分だけ休憩をもらった。
「あ、つぅ…!!!」
守谷に腕を差し出す動作でさえ、鈍い痛みが右腕全体に走る。
「なんでこんな風になるまで無理をしたんですか」
「ごめんなさい…」
控え室で日奈子の右腕を見た守谷は、握手会の続行は不可能と判断した。しばらくの間、動かしていなかった右腕を使いすぎたせいで、指先は腫れあがり治まってきていた炎症がぶり返していた。
強い痛みがあるであろう日奈子が、頑として続行を譲らず、根負けした守谷は仕方なく、日奈子の腕を吊り、痛み止めを打った。そして右腕を使わないことを条件に、握手会の続行を許可した。
会場に戻る前にトイレに寄ると、衣装を整え、笑顔を練習をした。痛み止めの注射を打ってもらったが、すぐに効くはずもなく油断すると歯を食いしばってしまうほどだった。何度か満面の笑みを鏡に向けると、深呼吸をしてトイレを出た。
しかしそれは突然の出来事だった。
トイレを出たところで、スタッフの腕章をつけていない男が立ち尽くしていた。日奈子と目が合うと、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
逃げなきゃ、と思った。日奈子は男に追いやられる形で、階段を下った。下の階には握手会の会場がある。そこまで逃げ、誰かに助けを求めなければ。
日奈子の身体は突き飛ばされ、一瞬宙を舞い左半身を下にして階段に叩きつけられてしまう。男は傍らにあった消火器を持ち、ゆっくりと階段を降りる。男の顔は殺気に満ち、呼吸も荒い。しかし逃げたくても身体が言う事を聞かない。
消火器が破裂する音と日奈子の張り裂けそうな悲鳴は会場の全員の耳に届いた。
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